僕らの時代 ~少年期①~
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天保3年の江戸
1832年、天保3年。上野には見物人が溢れていた、とのこと。桟敷もあり、物売りも出ていた。
で、人々が待っていたのは、「江戸上り」と呼ばれる琉球からの使者、およそ100人の行列だった。
江戸上り
「江戸上り」は、幕府の将軍や琉球の王が代替わりすると、幕府に挨拶に出向くことだった。
1634年の徳川家光から1850年の徳川家慶まで実施され、18回に及んだ。薩摩に渡り、瀬戸内海から大阪、淀川、東海道を辿る、2000kmの旅。
1832年、16度目の江戸上り。6月に旅だった一行が江戸に着いたのは、11月。実に、5ヵ月にわたる長旅だった。
文化交流
旅の途中、琉球使節は各地で様々な交流の場を持った。で、花形は楽童子だった。
若い女性に見間違えるほどの豪華な衣装と装身具を身につけ、美しい容姿の楽童子は、注目の的だった。
彼らは、宴席で楽を奏で、歌舞をし、書を書き、歌も詠んだ。使節の文化交流の中心を担う役職だった。
琉球ブーム
大阪、京都、名古屋、江戸では、琉球使節がやってくるたびに琉球関連の書籍や絵巻が次々と刊行され、琉球の歴史や民俗などが紹介された。新井白石の「南島志」、森嶋中良の「琉球談」なども琉球への関心を高めるのに、重要な役目を果たした。
天保3年には、琉球ものの出版が23件を数え、いわゆる琉球ブームのような状況を呈した。そして、前回から26年ぶりに琉球使節が江戸に上ることになったので、江戸は沸きに沸いたのだ。
そしてこの時期、琉球を描いた人気の絵師がいた。・・・
「矢車剣之助」と「江戸上り」
江戸時代に18回も琉球使節の「江戸上り」があったことを知ったのは、10年ほど前のこと。沖縄に住んで30年以上経っていた。なぜ、それまで知る機会がなかったのか。おそらく、学校の授業では習わないだろう。日本史の教科書には載っていないだろう。それは、実は沖縄の学校でも同じで、教科書が沖縄の子どもたちも、「江戸上り」を知る機会は少ないと思う。「琉球史」という授業が必要だろう。
さて、いろいろと調べているうちに、子どもの頃に知る機会があったことが分かった。もう、60年も前の漫画のに、「江戸上り」が登場していた。子どもの頃に愛読した月刊の漫画「少年」に連載されていたのが「矢車剣之助」。当時、小学生で十分に読む機会はあったと思うが、その中に、確かに「琉球使節団」が登場していたのだ。
琉球八景
「富嶽三十六景」を描いた葛飾北斎が、「琉球八景」を描いた。
もちろん、琉球にスケッチに来たというわけではない。
中国の役人周煌(しゅうこう)が、琉球での使命を果たして帰国後に報告書「琉球国志略」をまとめた。
これが後年江戸幕府が手に入れて再版したのを北斎が入手し、その中に描かれいたスケッチを参考に想像
で書いたのが、「琉球八景」だった。
ところで、北斎が琉球を描いたのは、これが初めてではなく、すでに20年以上も前に描いていた。・・・
「琉球八景」との出会い
2009年の11月、旅行から帰った友人が、「機内雑誌に自転車が特集されていた」ということで、自転車大好きの僕にその雑誌をくれた。で開いてみると、自転車以外に特集されていたのが「琉球八景」だった。北斎が琉球を描いていた!本当に驚きだった。そこから、僕の新しい「琉球の旅」が始まった。
「鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月」
「琉球八景」を描いた北斎だが、実は25年ほど前にも琉球を描いていた。
曲亭(滝沢)馬琴の代表作の一つに「南総里見八犬伝」があって、僕らも少年時代から、映画やテレビで馴染んでいたのだが、馬琴のもう一つ代表作については、何故かあまり知っていなかった。それは「鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」。
全29冊の大作で、文化4年(1807年)から4年間かけて完結した。馬琴も予想しないほど評判になり、筆が進んだと言われている。鎮西八郎為朝(源為朝)という、実在の薄命の英雄を、当時としてはエキゾチックな琉球という舞台に登場させた着想が人気となったのだった。そして、この作品の挿絵を描いたのが北斎だったのだ。
史実としては、源為朝はに流されて、そこで討死している。現在、島には為朝神社がある。ただ、日本人好みの英雄として、江戸時代からずっと語られて来ていろいろな伝説があり、さまざまに書籍がでているのだ。
さらに、1955年(昭和30年)に東映が東千代之介主演で映画化している。
「弓張月」、1959年(昭和34)には宝塚が公演している。
1969年(昭和44年)、三島由紀夫が戯曲化した歌舞伎が演じられた。
ポスターは、横尾忠則。