昭和6年(1931年)、「酒は泪か溜息か」がヒット。いわゆる古賀メロディーだ。歌ったのは、藤山一郎。
昭和の30年代以降を、テレビを友達として育った僕らは、「懐メロ」と呼んで親しんだ歌が沢山ある。これも、何度も聞いた曲だ。他には、「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「蘇州夜曲」など、数多い。
この「酒は・・・」のB面は、「わたしこの頃憂鬱よ」だったとのこと。歌手は、淡谷のり子。物まね芸人のコロッケが、彼流のやり方でかなり誇張して真似して、ご本人とテレビ番組でヤリあった愉快なシーンが懐かしい。
彼女は、東洋音楽学校を首席で卒業。「10年に一人のソプラノ」と評され、後に「ブルースの女王」と呼ばれた。
昭和12年(1937年)の「別れのブルース」は、日中戦争の勃発で水をさされたのだが、半年たった頃から満州の兵士の間で人気となり、戦線での将兵の望郷の歌となった。しかし、時局にふさわしくないとされ、発売禁止となったのだった。
そんな中、兵士たちの慰問に行く。
「兵隊さんたちが、歌えとさかんに言うので、反抗心も手伝って歌ったの。すると、演芸係の将校さんがすーっと席をはずしたわ。立場上、見ないふりなんでしょうね」(淡谷のり子)
将校たちも、窓の外で隠れて聴いていたのだった。
彼女はある時、街で〇〇婦人会のタスキがけのおばさんから注意された。
「贅沢は敵だ。その派手な洋服と化粧はなんだ!」
「衣装と化粧は歌手の武器、兵隊さんの武装と同じ!」とやりかえした。
さて、少年時代からテレビで見慣れた芸人さんの一人に、柳家金語楼がいた。
NHKの番組「ジェスチャー」で、男性チームのキャプテンを長年務めた。ちなみに、女性軍は水の江瀧子だった。
金語楼は、三遊亭金登喜と名乗って、6歳で初高座。天才と呼ばれた。
20歳で2年間の兵役。その後、落語界に復帰し、罪のないナンセンスな「兵隊落語」で人気者になった。
そして、満州の慰問で、淡谷のり子と出会う。
「これはこれは、ブルースの女王様。皇軍の慰問ですか」
「あらまあ、師匠も、そうなんですね」
続けて、淡谷のり子は言い放った。
「こんな寒いところで、兵隊さんが可哀想。戦争は、お偉いさんが勝手にやること。下っ端の兵隊さんはいい迷惑です。あたしたち芸人には関係ないことだわ。馬鹿馬鹿しいったらないわよ」
「そんな大声出したら参謀たちに聞こえますよ」
「聞こえるように、わざと大声出しているのよ!」
ブールスの女王は、「いくら勇ましい歌を押し付けても、前線の兵士たちは悲しい歌を好む。それがあたりまえ」と語って、一度も軍歌を歌わなかった。
別れのブルース
作詞:藤浦 洸
作曲:服部良一
窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風、汐風、恋風のせて
今日の出船はどこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ
腕にいかりの いれずみほって
やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても
恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ
参考:
「昭和の流行歌物語」(塩澤実信著/展望社)
「昭和の流行歌100選 この人この歌」(斎藤茂著/廣済堂出版)
「戦争と芸術 従軍作家・画家たちの戦中と戦後」(もりたなるお/産経新聞出版)
晴輪雨読
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